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武田勝頼って信玄以上の名将だった件

1:2013/07/23(火) ID:
実は信玄が無能だったというのは言わないお約束

※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/
135:2013/09/14(土) 10:44:36.23 ID:
大損害を受けたはずの織田軍が
なぜかその後すぐに越前と東美濃に攻め込む不思議

一方軽微な損害の武田軍は
それまで押せ押せだった格下の徳川相手にいっぱいいっぱいで
秋山に援軍も出せず見殺しにしてしまった不思議

だが理論は不思議でいっぱいだ

140:2013/09/14(土) 12:04:31.06 ID:
織田軍が合計で30万人くらいいたんだろうな
それなら三方が原で1万数千出して大敗しても
長篠でズタボロにされてもすぐ織田軍が軍事行動できたという
だがチョン理論の説明がつく
141:2013/09/14(土) 12:37:52.24 ID:
>>140
織田軍の兵力30万の一次史料を出してください。
織田軍の兵力は最大でも3万なのが一次史料から窺われる最大兵力です。
146:2013/09/14(土) 15:31:49.48 ID:
父信玄は情報収集には相当力入れてた
乱波一人が持ち帰った情報だけを信じず他の乱波の情報と重なり合わせ、その上で判断していた
四郎はその父の姿を観てなかったのか
166:2013/09/18(水) 02:32:51.47 ID:
丸島和洋「天文十一年六月、シンゲンは突如諏訪に出兵した。
武田勢の行動は(中略)、事前に「手切れ」(同盟破棄)を通告することもない...」
「諏訪頼重は(中略)、その後自害に追い込まれた(「守矢頼真書留」他)。」
芝辻俊六「天文十一年七月、当主の頼重が義弟の信玄に諏訪を攻められて謀殺され」
磯貝正義「翌五日、頼重は甲府へ送られた。晴信も九日には甲府へ帰還した。
頼重は十九日に板垣信方の会下の東光寺学寮に幽閉され、二十一日の早朝(寅刻)切腹させられた。」
平山優「七月四日には頼重・頼高京大を降伏させ、同五日に甲府へ護送した後に、
二十一日に甲府東光寺で切腹させた。」

だが君の思い込みとは違って、史学としては信玄の謀殺だw
168:2013/09/18(水) 12:19:44.74 ID:
ん?暗殺の部分に関して珍しく事実を記述してたってだけだろw
守矢頼真書留って見えないか?w
170:2013/09/18(水) 23:46:22.36 ID:
丸島が引用してるだろ?w
なに?信じられない?w
216:2013/10/30(水) 08:44:08.98 ID:
当代では勝ち目ないから子孫の話に逃げたか菅沼
そりゃありもしない噴火にびびって潰走するのはフォロー出来んかw
221:2013/10/30(水) 13:18:57.14 ID:
>>216
そもそも武田の子孫自体が存在しないしな
嫡系は武田となんの関係もない柳沢吉保の子孫
傍流は本庄繁長の子孫で事実上の乗っ取り
明治天皇からは武田の血が一滴も入っていない柳沢系が武田嫡系認定されるなど
時の日本からどうでもいい扱いを受けているのが武田

山梨民が金儲けのためにワイワイ騒いでるだけで
武田なんて誰一人崇拝していないのが現状
そらそうだ、武田を裏切り外から侵略してきた織田徳川に
頭を垂れて命乞いしたのが今の山梨県民の祖先だし
当主からして武田の血が一滴も入っていない、甲斐源氏をブランド扱いするだけの人間だし
ただの茶番劇に気づかない菅沼遼太は哀れだけど
269:2013/11/27(水) 15:18:57.15 ID:
天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わったからね。
家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き
一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の
豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから、
皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかったけど、
別に家康が凄かったわけでも無い。
利家如きにビビってたくらいだしな。
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw

家康は武断派に騙されて、
急いで西上してきただけで
それ以前はビビって江戸から動かなかったじゃん。
関ヶ原だって井伊とかもいたが、
ほとんど豊臣恩顧が戦ってただけじゃん。
家康は棚ぼたなだけだし
292:2013/11/27(水) 23:04:15.31 ID:
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
294:2013/11/27(水) 23:05:39.59 ID:
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
314:2013/11/28(木) 15:24:48.60 ID:
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
316:2013/11/28(木) 15:26:20.94 ID:
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。

1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
318:2013/11/28(木) 15:27:17.52 ID:
秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
384:2014/01/21(火) 16:26:25.35 ID:
金丸に関しては同情するわ。
なんせ自宅にあった金塊を、
北朝鮮から貰ったものだと決めつけられマスゴミから悪党イメージを執拗に植え付けられたからな。
その後も麻原彰晃から貰った金塊だとかウソで粘着され、
結局、そんな証拠は一切出てこない。
これがキッカケで脳梗塞で死去だからね。
金丸は政治家の世襲に反対して息子を政治家にしなかったのは好感が持てる。
金丸が健在だったら山梨県がキチガイ日教組王国にならずにすんだ。
左翼は金丸を悪人に仕立て上げ死に追いやり、
反金丸反自民反保守を煽りまくり日教組王国を成立させた。
430:2014/02/22(土) 12:08:16.16 ID:
あらかじめ白紙に信玄の花押を書いておくのも出来すぎた話だ。恐らくつじつま合わせの後世の作り話だろ。
普通に考えれば朱印で済む話なのだが、死亡後の信玄の花押が出てくるあたり、信玄生存の可能性は消えない。

信玄が野田城から長篠城に引き上げて甲府に帰っていったのは三河・遠近の征圧が目的であれば不可解な
行動ではないし。信玄が死亡したというデマが広がっただけだと思うがな。
431:2014/02/22(土) 12:25:15.60 ID:
>>430
>>白紙に信玄の花押を書いておくのも出来すぎた話だ
それ鴨川氏が大幅に書状の年代鑑定を変えた山梨県史において成立する話だからな。
愛知県史だと鴨川説を取らないから、死ぬ寸前の信玄が白紙に花押を書した書状を残した事実は無い。

どちらにしろ信玄の死を隠していたがバレて、ついには氏政が勝頼と同盟継続の約束を取り付けている。
またその時期には信長も信玄の死は確実と書状に書いており、この後に義昭の無抵抗降伏へ至る。
そして死去の混乱を安定化させるために武田が内治に集中している隙を狙って
家康が奥平貞能・貞昌親子を調略し長篠城を奪回できた。

勝頼は来年春の当家興亡の一戦による決戦をタイムスケジュールに入れていて
軍役定書を出していて天正3年後半はそのための準備期間だった。
しかも同時期に義昭を通しての上杉・武田・北条の和睦外交もあった。
さらに来年初頭には信玄の仏事を大々的にやる予定でもあり援軍派兵は控えていた。
その期間に二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、
その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の
明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかない。
デタラメ神君マンセー「大須賀記」にしか登場しない犬居城陥落物語w
長篠の戦いでは信長が一切、皆柵ノ内ニ引籠って出陣を禁止。
織田・徳川は徹底的に引きこもりを続けていたが
大須賀康高が柵の外への出馬が御法度なら馬に乗らずに歩行すれば御法度破りに
ならないじゃんwwwとトンチを利かせて一番合戦を開始し比類無き働きをする。
その後、遅ればせながら大久保忠世・忠佐・内藤家長も出てきて
彼らだけの独力でついには武田を敗走に追い込むことに成功。
大須賀・大久保・内藤連合が武田に勝利するまで織田軍は柵から一切出ずに
縮みあがってヒッキーだったが、追撃の時になってやっと出陣。
長篠の戦いは徳川の勝利であり、織田は単なる引きこもり無能だったというストーリーで
織田軍のヘタレ具合が各軍記・家記でも随一の記述が「大須賀記」
487:2014/03/10(月) 22:31:47.47 ID:
確か元亀四年の家督相続祝いの手紙が本願寺から来てたような気がするけど、そのへんは?
509:2014/03/15(土) 17:48:52.76 ID:
その後生きてる信玄の書状があるんだって言ってるわけだけど、知りたくない事実は見えないのかなあ
554:2014/04/27(日) 09:25:44.95 ID:
上杉ももう数か月、本能寺遅かったら潰れてただろ。
679:2014/05/26(月) 00:05:46.02 ID:
でもさ、歴史の結果知った上で書くと、当時の武田家のガンは穴山なんだよ。
なぜ、信玄は、上洛の前に、勝頼を跡継ぎに決めなかったのだろう?
もし、決めたら、穴山がやってられないと言って謀反でも起こすことが在り得た
のだろうか?義信の件で、穴山の弟が切腹させられ、心情的にそう簡単に、
勝頼に従いたくはなかったのだろうか?
700:2014/06/15(日) 01:37:56.33 ID:
勝頼に経済感覚は、あったのかな~
勝頼に信長のような、経済的な感覚があったらなと思うが、
高天神城も落とす必要はなかったような。
維持が大変だから。
後に、高天神城を見捨て、武田の滅亡に拍車がかかる。
新府城もむしろ、経済効果と、民の心情考えると逆効果のような・・・。
穴山が裏切る際の手土産として、勝頼に作らせた話もあるけどね。
703:2014/06/15(日) 09:52:31.19 ID:
>>700
1574年の高天神落とした段階では掛川城を南からも圧迫するという意味で十分価値がある

>>701
その説は現在はほぼ否定されている
一時期の信長の通説否定ブームの一環で出されたようなものだしな
今じゃ誰もその説を採っていない
705:2014/06/15(日) 18:07:42.53 ID:
>>703
>>その説は現在はほぼ否定されている
誰が否定してるのか具体的に論文名を書いてください。
701:2014/06/15(日) 08:55:16.23 ID:
むしろ信長こそ経済感覚ないから、
撰銭令で大失敗して貫高制を崩壊させたじゃんw


引用元:

2014/09/18 17:24 | 未分類COMMENT(0)  TOP

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